「結婚はコスパが悪いからしない」は逆説的に「結婚すべき」という価値観が支配的である事を示している?
ちょっと前に、結婚は「コスパが悪い」という記事が話題になったようです。
<一極社会>結婚「コスパ悪い」 「恋愛の価値」低下
結婚は「コスパ」が悪い?議論勃発
この元の記事は、(明示されてはいないけれども)男性の立場から書かれた記事なのですが
ざっくりまとめると
- 結婚すると、妻子を養わなければならない。それは経済的にマイナスである
- 価値観の多様化により、結婚に対する価値が相対的に薄れている
ということらしいです。
私は個人的に、結婚したいヤツは結婚すりゃいいし、結婚したくないヤツはしなくてもいいし、
そこに他人が、たとえ親であれ、とやかく言う筋合いはねーだろ、と思っているわけですが。
この、「結婚はコスパが悪い」理論はあまりにもザルだと思うのです。
本当に結婚はコスパが悪いのか?
先の記事を読む限り、「結婚はコスパが悪い」とされるのは
結婚すると妻子を養わなければならない、という点に尽きるようです。
でも。結婚=寿退社、でもないですし、結婚=出産でもありません。
これらを前提とせず、結婚なんて紙っペラ一枚出すだけ、と考えればそこに経済的な不利益はありません。むしろ、メリットがあるくらい。
コスパ云々を言う以上、子供は考えてないとすると、夫婦が共働きできない理由はありません。
よっぽどの遠距離で結婚を機に同棲、とでもならない限り、今の仕事を続ければ良いわけですから。
夫婦共働きなら、経済的にはデメリットが無いどころか、メリットすらあります。
人間、誰しも先のことはわかりません。今はバリバリ働いていても、いつ事故や病気で働けなくなるかも知れないわけです。そんな大層なことがなくても、単純にリストラでクビ、ってこともあり得ます。
そんな時、自分一人の収入でやってると、収入はほぼゼロになるわけですが、夫婦共働きなら、収入が半分になるだけで済むわけです。
分散投資によるリスクヘッジというのは投資のごくごく初歩のお話なわけですが
共働きというのは、家計単位でみれば、まさに労働力の分散投資なわけです。
さらに、もし勤務先が近くて夫婦同居できるなら、これも経済的な恩恵をもたらします。
まず、家賃や光熱費が折半になります。単純に言えば家賃は二人で割れば半分になりますし、光熱費だって少なくとも基本料金分は半分です。
さらに、自炊をするのであれば、大抵の場合、一人分を作るより二人分を作るほうが単価は安く上がります。
これまた、経営なんかでは基本の、規模の利益というヤツです。
とまぁ、普段、ネズミの脳味噌の事しか考えてない私みたいな門外漢ですら
ちょっと考えただけで結婚はコスパが良い、とする論拠を挙げられるわけです。
どちらも、投資や経営の話では基本の基本なわけで、そんな事も考えずにコスパを語るなど、笑止千万というもの。
ましてや、”結婚=出産&女は家で家事育児”とか、どこがどう”価値観の多様化”なのか、聞いてみたいものです。
というか、本当にコスパが悪いから結婚しない、と思ってるのか、疑問なのです。
本当のところは、結婚したくない/結婚に興味が無い、が本音であって、それを正当化する理由が「コスパ」なのではないでしょうか。
ピア・プレッシャーと理論武装
仮に、Aさん(都内在住、独身)は特に結婚したい相手がいるわけでもないし、結婚そのものにも特に興味が無いとしましょう。婚活とかを冷ややかな目で見ているタイプです。
ところがこのAさん、盆暮れに実家に帰るたびに言われるのは「いい加減に結婚しろ」だの「孫の顔を見せてくれ」だのという話。正直うんざり。
さらに、最近、Aさんの上司が40代半ばにして結婚。結婚するや否や、事あるごとに上司が結婚が如何に素晴らしいかを滔々と語りかけ、ますますうんざり。
挙句に、久々の同窓会に出てみればみんな一児の母だの二児の父だのばっかりで、聞かれる質問が「なんで結婚しないのー?」
Aさんはもうブチ切れ寸前。ですが良識ある大人であるAさん、うるせぇビッチすっこんでろ、と思春期ど真ん中の青年のごとく感情を爆発させるわけにもいきません。
そこで編み出したのが「ロジカルに考えて、結婚するべきではない」という反論であり、自己正当化です。
こういう、ピア・プレッシャーと、それに反駁するための自己正当化、というのは、何も結婚に限ったことではないと思うのです。
というか、私にだって身に覚えがあります。
たとえば。私はカラオケがキライです。
そもそも、流行歌ってものに興味を持たずに来た上に、歌もお世辞にも上手いとは言いかねるものなのでカラオケに行っても楽しい要素があまりないのです*1。むしろ、「みんな好きでしょー?君も好きじゃないわけないでしょー?」みたいな感じでマイクを差し向けてくる輩に嫌悪感すら覚えます。
お前が好きだからって俺も好きな理屈はねーだろ、と。
だいたい、なんで金はらってまで、自分の下手な歌を開陳するのみならず、他人の下手な歌を聞かされにゃいかんのだ。歌が聞きたかったらプロのをCDなりYou Tubeなりで聞くわい。
一万歩譲って、昔の曲を聞いて懐かしさを云々、とか言うかもしらんが、俺に限って言えば、そーゆーの無い。だって俺、興味なかったもん。
だいたい、「自分らしさをー」だの、「自分だけのー」だのと言いつつ、100万枚を売り上げ1000万人には聞かれたであろう歌をありがたがるのも理解不能だし、聴いてない者を異端とするのはもっと解せない。
カラオケというのは詰まるところ衆愚の慰みであり、羞恥と苦役に金を払うマゾヒズムの極地であって、カラオケを断固として拒否拒絶する俺は正しい、間違ってるのは自身の蒙昧さに無自覚な貴様らだ!
と、まぁ、肩を怒らせて叫んだ所で、「なるほど、カラオケは確かに非生産的で非論理的な浪費であった」と思う人が居るかといえば、まず居ないわけ。
なんだけれど、周りの「みんなカラオケ好きでしょー?楽しいでしょー?」「カラオケキライなやつとか人間じゃねぇだろ」みたいな”ピア・プレッシャー”に反抗する時に、
ただ「いや、俺カラオケ嫌いなんで」では足りない、と思ってしまう。
なので、なぜカラオケが嫌いなのか、いかにカラオケが無駄で無意味なのか、ということを説こうとするわけです。
本来なら、「いやー、俺カラオケ興味ないんだよねー」「あ、そうなんだー」で良いはずなんですけど。
結婚の話だって同じで「いやー、俺、今のところ結婚には興味ないんだよねー」で良いはずなんだけれど
周りからの「結婚して当たり前」ってプレッシャーが強いと、興味が無いではなくて、積極的に結婚しない理由が必要になるわけで
その一つの結実が「結婚はコスパが悪い」なのではなかろうか。
マイノリティの反論は行き過ぎがちなのではないか
結婚の例だと、「君は結婚に興味がある、私は結婚に興味が無い」でいいし、
カラオケの例だと「お前はカラオケが好き、でも俺は嫌い」でいい。
ところが、実際に言ってるのは
「君は結婚に興味があるようだが、〜〜という理由で結婚は間違った選択肢だ」であり
「お前はカラオケが好きなようだが、〜〜という理由でカラオケは有害無益だ」
なのだ。
これは、もう少し抽象化してみると、マイノリティの側の反論は
「マジョリティのみが正しいのではなくマイノリティも正しい」という共存で十分なはずが
「マジョリティは間違yっていて、マイノリティこそ正しいし広まるべき」という逆転を目指している形になっている。
ところが、この物言いは、マジョリティ側には極めて不快に映る。
言うなれば、マジョリティ側が「好みの押し付け」をしてるのに対し
マイノリティ側は「嫌いの押し付け」をしている構図ではないだろうか。
しかも、その「嫌い」は。相手が「好き」なものなのだ。
これは中々深い溝。
自分が好きなモノを相手が嫌いなのは、まぁ、自分とは他人は違うからね、で良いのだけれど
自分の好きなモノを嫌いになれ、と押し付けられるのは強い反感を伴うことは想像に固くない。
例えば私は犬が好きだが、それに対して
「犬は臭うし朝晩の散歩や餌やりといった手間もかかるし、ましてや人を噛むことすらある。あんなものを好き好むのは気違いじみた沙汰だ」と言われれば少なからず不愉快であろう。
それよりは
「あなたは犬が好きで信頼しているかもしれないが、私は犬の匂いもダメだし、噛まれるかもしれない、と思うと怖いので、リードに繋ぐなりケージに入れるなりしてもらえますか」
と言われれば、そうだね、自分と他人は違うものね、共存できる妥協点を探そうね、となるだろう。
みんな違って、それでいい
結局のところ、少なくとも個人の好き嫌い、興味においては
みんなと違うお前はおかしい、とか、逆に、みんな流されてるだけでおかしい、とかいうのではなくて
みんな違って、それでいい、ということをお互いに認め合う、ということ。それが一番、なのだろう。
好きを押し付けるのはもちろん、嫌いを押し付けられても、やっぱり不愉快だもの。
*1:ちなみに、以前は付き合いで行ったりすることもありましたし、多少なりとも歌える歌を作ろうかと考えた時期もありましたが、ある事件を契機に、もう絶対にカラオケには行くまい、と誓ったのであります。
はや3年
どうやら、明日で渡米して3年になるらしい。
思えば、3年前、渡米した時は、なーんにも期待してなかった。
世の中には、留学こそ我が夢、我が希望、って人もいる(というか、留学する人の多数派?)ようだけれど
私の場合は、全然そんなことなくて。
どーせ、メシはマズイし、事務はトロいし、しかも英語は分からんし、
ロクな目には会うまい、と思ってたのでした。
じゃあなんでアメリカに来たかというと、研究に挫折した後を見越してなのでした。
三年前の時点で、もうちょっと自分のやりたい研究やってみようとは思ってたのですが
それが大当たりして万々歳、と無双するほどお花畑でもなくて。
どちらかと言うと、挫折する公算の方が高い、くらいのつもりでした。
で、日本で研究員やって辞めました、ってのと
アメリカで研究員やって辞めました、ってのと
どっちが、外から見た時にマシか、言い換えると、再就職先の選択肢が広いか、を考えると
研究が評価されない職なら、アメリカのほうがマシだろう、と考えたのでした。
そんなわけで、ある意味、渋々ながらアメリカの、しかも日本人率の低い街にやってきました。
年齢的には結婚も考えるお年ごろではあったのですが
そもそも筋金入りの英語嫌いだったので国際結婚とか無理無理ですし
かといって、人口比で東洋人が1%とかいう土地なので、色々と諦めていたのです。
と こ ろ が
住めば都とはよく言ったもので。
全員ではないけれど、外国人に、信じられないほど良くしてくれる人もいるし。
出身国は違えど、外国人、って点でシンパシー感じて繋がる人もいるし。
マズいメシは本気でマズいけど、ちょっと出せばかなり旨いメシも食えるし。
日本人は、超少数派であるがために、他の共通項が全くなくても日本人、ってだけで同族意識が出て繋がるし。
しかも、ひょんなことから、とある日本人と恋仲になり、ついには先日、結婚してしまったし。
いやぁ、人生、どこで何がどーなるか、分からんものです。
日本の外に出ることで、日本の良さ悪さを改めて知れましたし、
外にでることで、色々と視野も広がりましたし、
何より、若干(?)ヘンな私とウマのあう、ちょっとヘンな日本人と出会えましたし。
多少は、私のひどい英語もマシになった…と思いたい(哀
なにはともあれ、私が今、言いたいことは一つ。
騙されたと思って、海外に行ってみ。海外に住んでみ。
いろいろと、視野が広がるから。
もしかしたら、もっと良いこともあるかもしれんから。
being a ガイジン
今更ながら、いま住んでる街、日本人が少ない。
なんでも、アジア人は人口比1%以下で、しかも最多は中国人、次いで韓国人、だそうで。
ソースは知らないけれど、本当だとするなら、多く見積もっても日本人は人口比0.33%。中国人の多さを考えると、もっと少ないはず。
そんな所なせいか、こっちで出会う日本人は、色んな意味で、日本からはみ出した人が多い、気がする。
日本で学位とってアメリカでポスドク、なんてのは、平均的日本人からは外れてますが、こっちで出会う日本人から見ると普通すぎるくらい。
そして、こっちで会う日本人、みんな逞しい。
ばりばり適応して、アメリカ人ともガッツリやりあってる様に見える。
私は引きこもり気味なので、そんな逞しさはサッパリ持ち合わせていませんが…
かわりに、「英語とかデキんし、しゃーない」という諦観で乗り切ってるような。よくないね。
まぁ私の話はさておき、そんな「オレにゃ日本は狭すぎるゼ!」みたいな人たちも、
話してみると「今じゃないけど、ゆくゆくは日本に帰りたい」という人が多い。
(他の国から来た人だと、絶対に帰りたくない、とかって人も結構いる)
やっぱり、外に出て気付く日本の良さ、ってのがあるんしょうね。
私も、アメリカに来て改めて、自分が日本が好きだって気づきましたしね。
というわけで、私も、いつかは帰りたい派、です。
いつか、というか、いいポジションさえあればすぐでもいいんですけどね。
そもそも私の場合、アメリカに憧れがあって来たわけでもなく、マシな所を選んだって感じですし。
このへんの話は、機会があればまた。
まぁ、今の仕事を続ける限り、競争に晒されるのはしゃーないのですが。
なんだか、最近、ちょっと疲れてきたのも正直な感想で。
だいたい、一年先にまだ仕事があるかすら分からんわけです(割と切実に)。
ポスドクの雇用形態ってなじみがないでしょうが、イメージとしては派遣に近いものがあります。
雇用資金がなくなれば、仕事はなくなりますわな、当然ながら。
しかも、アメリカにいると、仕事が無い→ビザが維持できない→アメリカに合法的に滞在できない、となるわけで。
いくら日本も最近は終身雇用制が崩れ、人材流動化だといっても、
アメリカで外国人労働者やってるよりは遥かに安定してる。
日本にいればバイトだってパートだってできる。
まー、やりたいことやるかー、と日本で会社員やる機会を蹴ったのも
まー、なんとかなるやろー、とアメリカに出てきたのも
全ては自己責任なわけですし。
海外経験は少なからず自分の価値観を変えたと思うので
アメリカに来た事に悔いはないけれど。
今になって思うと、日本の会社員の安定っぷりはハンパないです。
そりゃ例外的なケースはあるけれど、3年後5年後の収入がある程度は予測できるなんて、すげーわ。
何が起こるか分からない方がいい、なんてセリフを言う人がいますが、そういう人は、自分の将来の予測を無意識のうちに確信してるんだろうな。
そもそも、人は先を知りたがるもんだ。天気予報、株価予想、放射線の健康への影響などなど…
そして先の見えない漫然とした不安は、じんわりと、でもいつまでも続くストレス。
とはいっても、日々の生活は面白いし、幸せなんだとは思いますけど。
吾唯足知。これが難しい。
2014 has come. I'm still alive. I don't know why.
あけましておめでとうございます。
半年以上も放置してますが、まぁ元気です。
今年の目標:シンプルに生きる
最近、なんか色々とややこしいと思う事がしばしばあったんですが、半分は自分でややこしくしてるだけなんじゃ、という気がしてきまして。
まぁ、それも性分といえばそうですし、過度に単純化して偏向するよりはマシだとは思うのですが。
単純に、自分のキャパが追いつきません。
というわけで、手始めに、このブログのFacebookやmixiと連携を切ろうとと思います。
そもそも、もはや無人の荒野と化したmixiに繋ぐ意味も見当たりませんし。
私の生存確認したい奇特な人は、滅多に更新しないココよりも、ちょいちょいポストしてるFacebookのほうが良いでしょうし。
このブログも、まぁさんざん放置して今更なんですが
あんまりアレコレ考えずに、思ったことをテキトーに垂れ流す感じに、ちょっと方向転換しようかなぁと思います。
どうせ、チラ裏ですからね。
と、言いたいことだけ垂れ流して、今日はこのへんで。
博士の異常な習慣 または私は如何にして夜更かしするのを止めて早朝を愛するようになったか
私事ながら、いま超いそがしい。この一週間がヤマ。
今日も時々場所を変えて頭をリセットしながら、読み考え書きを繰り返してたのですが
もう頭もストライキを起こしておりますので、今日は店じまい。
うーん、間に合うんかいな…
まぁ、今日はおしまい、と決めたので、切り替えまして。
生活リズムの話でも書いてみましょうか。
夜更かしだった私
この3ヶ月ほど、私は平日5時起き、土日は7時起き、という生活です。
就寝時間は決めてません。遅かろうが早かろうが、この時間に起きます。
まぁ、最低3時間寝れば気合いで起きれますし、一日くらいなら3時間睡眠くらいでも何とでもなります*1。
しかし、この早起き。
かつての私を知る人であれば、何が起こったのかと驚くでしょう。
なんせ私、学部生の頃は30時就寝、12時起床が普通でしたから。
まぁ、夜更かしだった理由なんて大したもんじゃなくて
何かやってるとなんとなく夜が更けてる、とか
なんか夜中の静かな時のほうが捗る気がするとか
そんな他愛もない理由だったのですね。
で、夜が遅いと朝も遅い、ってか昼まで寝てる。
下宿してた時とか、わざわざ遮光カーテン使ってましたからね(見た目は普通のカーテンなんだけど)。
余談ながら、昔、ウチの下宿に泊まりに来た友人と飲み明かして昼前に起きた時に、
「お前んちは、ホントに日当たりが悪いなぁ」って言われたことがあるのですが
実際は窓が南向きでしかも南隣が空き地だったので、超日当たり良かったんですけどね。
そんくらい、遮光カーテンの威力はスゴイってことですね。
で、そんなアイテムを導入するくらい夜型だったわけです。
大学院生時代は、ちょくちょく、異様に早起きになる時期がありましたが。
あれは、どちらかと言うと病的な部類だった気がします。
鬱病ってありますよね。
人によって様々な症状の出方があるのですが、よくある症状に早朝覚醒ってのがあります。
まだ3時間くらいしか寝てないのに、夜中にパッチリ目が覚めてしまう。
明らかに寝足りない感じがするのに、もうまんじりともしない。
こういう症状です。
書くと長くなるし、陰鬱になるので書きませんが*2
今にして思えば、ありゃ軽い鬱病*3だったな、って時期が私にもありまして。
その辺の経験から、意図してないのに早起きしちゃう時は、ストレスかかりすぎかもな、と気をつけるようにしてます。
なぜ早朝を愛するようになったか
これまで、基本的には自分一人でのほほ〜んとやってきたのですが
ラボにも学生が来るようになると、マシントラブルやらなんやらで、駆り出されるわけですね。
個人的には、この手のトラブルシューティングはむしろ好きなので良いのですが
*4
一瞥しただけ分かるようなポカならさておき、大抵の場合、時間と気力と労力を使うことになる。
すると、終わった後には、けっこう疲弊した自分が居るわけです。
そこから、一念発起、捲土重来(ちょっとちがう)、自分の仕事をやろうにも、頭が働かなかったりする。
これは、良くない。
一方で、最近はやらないのですが、かつて、好きな休日の過ごし方に
昼寝をしながら論文を読む、というのがありました。
なんか、面白そうな論文を一本、印刷して持ち帰り、横になりながら読む。
で、眠くなったら素直に寝る。目が覚めたら、また続きを読む。
で、眠くなったら素直に寝る。目が覚めたら、また続きを読む。
で、眠くなったら素直に寝る。目が覚めたら、また続きを読む。
………
これの面白いところは、あかん、もー無理、眠くて全然入ってこーへん、ってなって寝て
ほんの10分とか15分とか寝て起きて、もっかい読むと、スルっと入ってくる。
こういった経験とかから、自分なりに帰納しますと(個人差があるとは思うのですが)
インプットにしろ、アウトプットにしろ、寝て覚めた直後が一番効率がいい。
もうちっと、アメリカかぶれwな言い方をすると、寝起きが一番プロダクティブ*5。
今は亡きジョブスは言ったね。「他人の人生を生きるな」って。
じゃあ、この「一番プロダクティブな時間」は、自分の為に使わないとダメでしょ。
そのためには、学生がやってくる前の時間に、この「ゴールデンタイム」を持ってこないといけない。
(理論的には、後に、という可能性もあるが、ちょっと現実的ではない)
というわけで、よし、早起きをしよう、と決意したわけです。
如何にして早起きするようになったか
正直な所、夜型人間がいきなり、朝5時に起きよう、とか無理な話です。なので、過渡期、っつーもんがあります*6。
まぁ、これも考え方次第なんですが、「早寝早起き」じゃなくて、「早起き早寝」だと思うのです。
要は、眠くないのに寝るのと、眠いけど起きるのと、どっちが簡単か、という話。
のび太くんみたく、いつでもどこでも寝れますよ、という人はさておき
それ以外の人は、眠くても気合いで起きる方が簡単ではないでしょうか(もちろん程度問題だけれど)
というわけで、私の場合、寝る時間は設定しません。起きる時間は、最初は普段起きてる時間より15分早い時間。
翌日は30分、其の次は45分、って感じで、毎日、チョットずつ早くする。
寝る時間は決めてないけど、寝る時間が短いと早く眠くなるので、自ずと早くなる。
やり始めた当初は、昼過ぎには眠くて仕方なかったりしたけど
習慣というのはすごいもので、2週間もしないうちに慣れた。
一説によると、人間、100日続ければ習慣になって、苦なく続けられるそうだが
確かにそうかもしれない。
というわけで、私は、寝起きの一番スッキリした時間を、
自分の一番使いたい事に使うために、誰もいない時間にラボに行くべく、早起きをしてるわけです。
今や、それは習慣と化し、さしたる努力をする必要もなく、ただ携帯の目覚ましが遠慮がちに鳴るだけで十分なのです。
一旦慣れてみれば、なかなか快適な早起きの世界。
みんなが当たり前にやるようになると、意味が薄れてしまうので、あんまりオススメしたくはないんだけれど
でも、慣れてしまえば中々快適なので、やっぱりオススメです。
*1:かつて二十歳そこそこで、編集してた時はピーク時は週20時間睡眠とかでやってましたが、今では流石に無理…
*2:話すのは吝かではないので、聞きたいという物好きな方は直接聞いてください
*3:目が覚めてから数時間、布団から出る気力すらなく、二度寝するでもなく、ただ天井を見つめてる、というのが軽いかどうかは、自分では判断付きかねますが
*4:ある意味、こういうトラブルシューティングは実験屋の腕の見せ所でもあると思う
*5:アメリカ人はproductiveって言葉、大好きだと思う。自分の一日を振り返るのにも使うし、他人を評するときにもしばしば現れる
*6:この辺の、自分の意志で早起きしてるんやで、っつーのが、勝手に早朝に目が覚めちゃう、というのと違うところです
自販機にタッチパネル…意味がわからないよ
FBでタッチパネル式のジュースの自販機の動画を見た。
これ。
かっこいいけど、意味あんの?。
ただ単に今までの自販機をタッチパネルに置き換えただけだよね。
何か、タッチパネルにする利点、みたいなのが見えないなぁ。
個人的には、パッと見た時に自販機っぽくないから、広告だと思って素通りしそう…
初めてアメリカに来た時、ジュースの自販機が何か分からなかったしなぁ*1
まぁ俺が察しが悪いだけかもしれんけど、
自販機だと認識できない人が多いと、それっていわゆる「販売機会の損失」ってやつじゃねーの?
まぁ、何が自販機かを認識するのは慣れの問題なので、置いておくとして。
今のままだと、どーもタッチパネルをわざわざ使う意味が見えない。
なんというか、工夫がない。
じゃあ、どんな可能性がありえるのかな、とちょっとアタマの体操してみた。
タッチパネルの利点は?
そもそも、タッチパネル式の自販機そのものは、切符とかでずーっと前からある。
切符の場合、膨大な選択肢から絞り込んでいくという操作にタッチパネルは相性がいい。
路線図からタッチで買えたりとか。
昔は、近距離切符は券売機で買えたけど、それ以外は窓口だったし。
今や新幹線でも自販機で買えるもんねぇ。
でも、ジュースの自販機が、絞り込みが必要なほどの種類を抱えるのは現実的にムリがあるよね。
下で書くけど、ジュースの保管スペースがない。
もう一つ、これはタッチパネルというか液晶全般の話だけど、表示内容を変えられる、というのがある。
たとえば、ジュースを買う前に、そのジュースの成分表示が見れるとか…?
でも、そんなの気にしない人が大半だろうし、
いちいちそんな表示出されたらジュース買うだけなのにまどろっこしいわ。
気温とか時間帯とか、もしかしたら相手の風貌とかも使って、
「オススメ商品」みたいなのを表示したりすんのかな。
それで売上増えるのかもしれんけど、自販機でジュース買うときって大抵、何買うか、ある程度決めてる気がするなぁ。
あとは、売り切れの品物を、そもそも表示から消すとか?
これ売り切れかよ−、と思わなくて済む、というのはあるけど
目にする機会が減っちゃうと、宣伝効果としては微妙だなぁ。
ジュース自販機のメリットって何?
タッチパネルの利点からじゃなくて、逆に自販機のメリットから考えてみる。
自販機のメリットって、人件費の節約とか、24時間販売できるとかもあるけど、
ちょっとした空きスペースで簡単に物を売れる、というのが大きいらしい。
確かに、キヨスクなんかミニマムサイズの店舗だろうけど
それでも自販機に比べたら巨大だ。
だったら自販機は小さけりゃ小さいほど良いのか、って話になるけど
切符の自販機なんかよりはるかにデカイ。
ちょっと考えりゃわかるけど、自販機の体積って、ほとんどがジュースを冷やして置いておくスペースでしょ。
先に種類を増やすのは現実的じゃない、って書いたけど、
仮にコンビニのジュース全種類くらい売ってる自販機があったとしたら、
コンビニのジュースコーナーくらいのスペースが要るわけで、自販機のメリットを殺してしまう。
壁に埋め込んで後ろに膨大なスペースを用意できるとか、そういう限られた状況ならいいし、
それはそれで、都心なんかの人が掃いて捨てるほどいる所だと、回転効率よくて良いのかもしれんけど。
コンビニでジュース一本買うのにレジに並ぶのに比べれば、時間あたりに捌ける量も多そうだし。
飲食店だとよく回転率がどーとか言うけど、自販機だとあんまり言わない(気がする)。
たぶん、留まってる時間がそもそも短いから、客が待つって時間がほぼ無いんだろう。
回転率が求められる所ならば
さて、回転率の話が出ましたが。回転率が低いと何が起こるかっていうと
行列ができますわな。そんで一部の人はあきらめてどっか行っちゃいます。
いわゆる「販売機会の損失」ってヤツです。二回目ですね、コレ。試験に出ますよw
行列の宣伝効果なんてものあるらしいですが、それは美味しいラーメン屋とかの話で
別にジュースの自販機に行列してたところで、宣伝効果なんぞ無いのです。
人が集まる所で行列ができるのといえば、まずはトイレ。
あと、夏場のイベント会場とかだと、自販機の前にも結構並んだりする。
一昔前なら、公衆電話にも行列できたんだろうけど、今や携帯電話の時代だしね。
さて、トイレの行列を比べると、男子よりも女子のほうが圧倒的に長い。
理由は単純で、仮に用をたすだけだとしても、女のが長くかかる*2から。
その上、女子トイレだと個室に区切るぶん、便器の数も少なくなる。
それぞれがトイレで使う時間を短く出来れば行列もマシになるだろうけど、それは難しい。
まさか一定時間で強制的に退出させられるトイレとか作る訳にもいかんし。
だったら、あとは数を増やすしかない。
たぶん、こういう事情もあって、デパートの案内図とかで見ると、女子トイレの方が男子トイレより圧倒的に大きかったりするんだろう。
さて。自販機の話にもどりますと。
自販機の場合、さっきもチラッと書いた通り、客一人が使う時間は極端に短いので、
それでも行列が出来るような状況だと、あとは数を増やすしかない。
数を増やすのに一番簡単なのは、広い場所を確保することなんだけれど
もう一つのアプローチとして、一つ一つを小さくするってのもある。
これも先に見たとおり、自販機の大きさは貯蔵スペースの大きさなので、
小さくするのは難しいように思えるかもしれないけれど
よくよく考えれば、小さくするのはインターフェイス部分だけでいい。
貯蔵部分を複数の販売画面で共有してても何も問題ない。
切符の自販機の大きさがあれば、ジュースを買う程度の操作なら十分できるだろう。
なら、ジュースの自販機一台に、二つか、うまくすれば三つくらい操作画面付けられそう。
これだと、設置面積を変えずに、回転率を2倍〜3倍にできる。
中の貯蔵スペースから出て行く先を振り分けるギミックは必要になるけど。
一人あたりの表示スペースが減る分、タッチパネルも有効に働きそうな気がする。
まぁ、それで買うまでにかかる時間が長くなっちゃうと、なんのこっちゃって話なので
その辺のインターフェイスの作りこみは大事だろうけど。
なんか、こじつけ感はありますが…
というわけで、タッチパネルを自販機に付けるなら、
小さい目のタッチパネルと一台に2〜3個くらい取り付けて
複数人が同時に使えるようにするのが良いんじゃないでしょうか。
正直、自分でも、そんな自販機に行列できねーよ、とは思うのですが。
コンビニのレジの行列なんかを低減する方向に伸ばせないかなぁ?
弁当、パン、おにぎり、ジュースあたりをこれでやると回転率は上がるけど
商品ディスプレイとしてはかなりマイナスだよなぁ。
ほら、コンビニってふらーっと入って、たまたま見かけたものを買ってみる、ってやるじゃ無いですか。
タッチパネルにすると、そういうのが減りそう。
うーん、やっぱり自販機にタッチパネルは宝の持ち腐れ感があるなぁ。
いいアイディア出せれば化けるとは思うんですがね。
「経験の牢獄」…そこは600年前に世阿弥が通った道だッ!
東京造形大学 2013年度入学式での 諏訪学長による式辞が名言至極だと話題、なんだそうだ。
上のリンク先で全文が読めるので、暇と興味があればご一読をおすすめする。
要はこの学長の個人の経験を基に話をしてるのだけれど、ざっと読んだ私の理解では、骨子はこんな感じ。
-
- 映画制作の学部に入るも、大学サボって現場に飛び込んで色々と手伝ったりして仕事を覚えた
- 現場に出ることで、大学では得がたい経験を積み重ね、いっぱしのクリエーター気取りだった
- ところが、いざ大学に戻って作品を作ってみると、なんか小さくまとまった、つまらない物しか作れない
- それは、経験、常識に囚われていた、いわば「経験の牢獄」につながれた状態だったのが原因だった。
- 大学というのは小さな世界だけれど、そういう常識から自由な場所でもある。
- ミクロからマクロまで、社会は連綿と繋がってるから、大学という小さな中での自由な発想も、マクロを変える可能性があるはず
- だから皆さん、経験や常識にとらわれず、もしかしたら社会を変えるかも知れないような、新しいことを大学でやってみましょうよ
なるほど、やはり経験に裏打ちされた言葉というのは含蓄がある。
しかし、これを曲解して、「常識とかクソだし。俺は俺のやり方でいく。それが俺のジャスティス」とか言われると、ちょっと待て、って思う。
守破離
日本の、特に武芸や芸能の世界には、「守破離」という言葉がある。
実は私の好きな言葉のひとつでもあるのだけれど、これは別に武芸や芸能に限らず成り立つ、
何かを身につけようとするときに成り立つ普遍的な法則だと思う。
個人的には、それを身を持って知ったのが博士課程での一番の収穫でもある。
さて。600年も前に、かの世阿弥が説いたという「守破離」
いまさら私ごときが、その「守破離」を説明するなどおこがましいにも程があるのだが
かいつまんで説明すると、何かを極めるには、3段階ありますよ、という話。
まずは第一段階。とにかく「型を守」り、その道の常識を覚える。
次の第二段階は、ときどき敢えて「型を破」り、よりよい型を模索する。
最終段階は、もはや無意識下に埋め込まれた「型から離」れて、独自の境地を切り開く。
うまく言語化できないのが歯がゆいのだけれど、この三つはこの順番であることが大事で
どうせ最後には離れるんだからと「守」や「破」の段階をすっ飛ばそうとしても、なかなかうまく行かない。
というか、それで上手くいく人のことを、天才と呼ぶのだと思う。
(一方、それを言われるまでもなく実直に出来る人が秀才、なのかな)
で、天才でも秀才でもない、私を含めた世の中の99%以上の凡才は、
まずは「守」から始めるべき、という事を肝に銘じるべきなんだろう。
と、この「守破離」を踏まえて先の学長の話を読むと、おそらく彼自身はさほど意識してないんだろうけど、
彼のたどった道は、「守」から入って「破」に気づき、やがて「離」を目指す、という流れになっている。
オリジナリティか、ひとりよがりか
「車輪の再発明はするな」という言葉がある*1。
言うまでもなく、車輪は素晴らしい恩恵を与えてくれている。
もし車輪がなければ、自動車どころか馬車もないし、リアカーすらないわけで
車輪というものがいかに素晴らしいか分かろう。
しかし一方で、車輪というのは、ただの輪と軸、という単純極まりない構成で
牛車に引かながら「けふは良い天気でおじゃるなぁ」などと呑気なことを宣ってた時代からあった代物。
いくら便利とはいえ、そんな古式ゆかしいものを、「ぼくが考えた超便利なアイテム」と言われても、今更それかい、って話。
言ってみれば、ただ単なる「ひとりよがり」。読んで字のごとく、単なるオナニーですよ。独りでヨガってるんですから。
まぁ車輪なら単純ですが、他の、もうちょっとモダンで入り組んだジャンルで考えると
自分の思いついたものが、ただの車輪なのか、SF的スーパーアイテムなのかを判断できる、
つまりは、オリジナルなのか、ありふれたものなのかを区別できる、というのは
少なくともそれなりの経験と知識がいる。
言い換えれば、「守」の段階はクリアしてないと難しい。
この「守」の段階をクリアしてる、というのは、当然ながら、次に自分が何をするか、という判断にも大事。
やったところで、「ひとりよがり」なことしても、あんまり意味ないしね*2
巨人の肩の上に立つ
かのアイザック・ニュートンは、「なぜ、そんなに先を見通せるのか」と問われた時に
「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」と答えたとか。
ここで言う「巨人」とは、もちろん某球団のことではなくて、これまでに積み上げられてきた膨大な研究成果のこと。
守破離の話に引きつけて言えば、ニュートンは、
「私は過去の型に精通してるから、賢そうに見えるんですよ」と言ってるようなもん。
おそらく天才と呼んでも差し支えないであろうニュートンですらこうなのだ。
たとえ今、我々に斬新で革新的で新しいモノが求められているとしても
まずは「守」から始めるのが、結局は近道なんじゃないだろうか。
もちろん、「守」に囚われるだけでなく、それが「守」である理由を理解した上で
チャンスがあれば「破」にもチャレンジするべきだし、そんな中でだんだん「破」が当たるようになり
やがては「離」れた境地を切り開くことになるんじゃないかと思うけど。
…といった事を心に留めながら読むと、件の学長の挨拶も、ちょっと違った響きがあるんじゃないかな、と愚考する次第。
なんだかんだで、時の篩にかけられてなお残っている代物には、往々にして学ぶべきものがある、ってことですね。