「結婚はコスパが悪いからしない」は逆説的に「結婚すべき」という価値観が支配的である事を示している?

ちょっと前に、結婚は「コスパが悪い」という記事が話題になったようです。

<一極社会>結婚「コスパ悪い」 「恋愛の価値」低下
結婚は「コスパ」が悪い?議論勃発

この元の記事は、(明示されてはいないけれども)男性の立場から書かれた記事なのですが
ざっくりまとめると

  • 結婚すると、妻子を養わなければならない。それは経済的にマイナスである
  • 価値観の多様化により、結婚に対する価値が相対的に薄れている

ということらしいです。

私は個人的に、結婚したいヤツは結婚すりゃいいし、結婚したくないヤツはしなくてもいいし、
そこに他人が、たとえ親であれ、とやかく言う筋合いはねーだろ、と思っているわけですが。
この、「結婚はコスパが悪い」理論はあまりにもザルだと思うのです。

本当に結婚はコスパが悪いのか?

先の記事を読む限り、「結婚はコスパが悪い」とされるのは
結婚すると妻子を養わなければならない、という点に尽きるようです。

でも。結婚=寿退社、でもないですし、結婚=出産でもありません。
これらを前提とせず、結婚なんて紙っペラ一枚出すだけ、と考えればそこに経済的な不利益はありません。むしろ、メリットがあるくらい。
コスパ云々を言う以上、子供は考えてないとすると、夫婦が共働きできない理由はありません。
よっぽどの遠距離で結婚を機に同棲、とでもならない限り、今の仕事を続ければ良いわけですから。

夫婦共働きなら、経済的にはデメリットが無いどころか、メリットすらあります。
人間、誰しも先のことはわかりません。今はバリバリ働いていても、いつ事故や病気で働けなくなるかも知れないわけです。そんな大層なことがなくても、単純にリストラでクビ、ってこともあり得ます。
そんな時、自分一人の収入でやってると、収入はほぼゼロになるわけですが、夫婦共働きなら、収入が半分になるだけで済むわけです。
分散投資によるリスクヘッジというのは投資のごくごく初歩のお話なわけですが
共働きというのは、家計単位でみれば、まさに労働力の分散投資なわけです。

さらに、もし勤務先が近くて夫婦同居できるなら、これも経済的な恩恵をもたらします。
まず、家賃や光熱費が折半になります。単純に言えば家賃は二人で割れば半分になりますし、光熱費だって少なくとも基本料金分は半分です。
さらに、自炊をするのであれば、大抵の場合、一人分を作るより二人分を作るほうが単価は安く上がります。
これまた、経営なんかでは基本の、規模の利益というヤツです。

とまぁ、普段、ネズミの脳味噌の事しか考えてない私みたいな門外漢ですら
ちょっと考えただけで結婚はコスパが良い、とする論拠を挙げられるわけです。
どちらも、投資や経営の話では基本の基本なわけで、そんな事も考えずにコスパを語るなど、笑止千万というもの。
ましてや、”結婚=出産&女は家で家事育児”とか、どこがどう”価値観の多様化”なのか、聞いてみたいものです。

というか、本当にコスパが悪いから結婚しない、と思ってるのか、疑問なのです。
本当のところは、結婚したくない/結婚に興味が無い、が本音であって、それを正当化する理由が「コスパ」なのではないでしょうか。

ピア・プレッシャーと理論武装

仮に、Aさん(都内在住、独身)は特に結婚したい相手がいるわけでもないし、結婚そのものにも特に興味が無いとしましょう。婚活とかを冷ややかな目で見ているタイプです。
ところがこのAさん、盆暮れに実家に帰るたびに言われるのは「いい加減に結婚しろ」だの「孫の顔を見せてくれ」だのという話。正直うんざり。
さらに、最近、Aさんの上司が40代半ばにして結婚。結婚するや否や、事あるごとに上司が結婚が如何に素晴らしいかを滔々と語りかけ、ますますうんざり。
挙句に、久々の同窓会に出てみればみんな一児の母だの二児の父だのばっかりで、聞かれる質問が「なんで結婚しないのー?」
Aさんはもうブチ切れ寸前。ですが良識ある大人であるAさん、うるせぇビッチすっこんでろ、と思春期ど真ん中の青年のごとく感情を爆発させるわけにもいきません。
そこで編み出したのが「ロジカルに考えて、結婚するべきではない」という反論であり、自己正当化です。

こういう、ピア・プレッシャーと、それに反駁するための自己正当化、というのは、何も結婚に限ったことではないと思うのです。
というか、私にだって身に覚えがあります。

たとえば。私はカラオケがキライです。
そもそも、流行歌ってものに興味を持たずに来た上に、歌もお世辞にも上手いとは言いかねるものなのでカラオケに行っても楽しい要素があまりないのです*1。むしろ、「みんな好きでしょー?君も好きじゃないわけないでしょー?」みたいな感じでマイクを差し向けてくる輩に嫌悪感すら覚えます。
お前が好きだからって俺も好きな理屈はねーだろ、と。
だいたい、なんで金はらってまで、自分の下手な歌を開陳するのみならず、他人の下手な歌を聞かされにゃいかんのだ。歌が聞きたかったらプロのをCDなりYou Tubeなりで聞くわい。
一万歩譲って、昔の曲を聞いて懐かしさを云々、とか言うかもしらんが、俺に限って言えば、そーゆーの無い。だって俺、興味なかったもん。
だいたい、「自分らしさをー」だの、「自分だけのー」だのと言いつつ、100万枚を売り上げ1000万人には聞かれたであろう歌をありがたがるのも理解不能だし、聴いてない者を異端とするのはもっと解せない。
カラオケというのは詰まるところ衆愚の慰みであり、羞恥と苦役に金を払うマゾヒズムの極地であって、カラオケを断固として拒否拒絶する俺は正しい、間違ってるのは自身の蒙昧さに無自覚な貴様らだ!

と、まぁ、肩を怒らせて叫んだ所で、「なるほど、カラオケは確かに非生産的で非論理的な浪費であった」と思う人が居るかといえば、まず居ないわけ。
なんだけれど、周りの「みんなカラオケ好きでしょー?楽しいでしょー?」「カラオケキライなやつとか人間じゃねぇだろ」みたいな”ピア・プレッシャー”に反抗する時に、
ただ「いや、俺カラオケ嫌いなんで」では足りない、と思ってしまう。
なので、なぜカラオケが嫌いなのか、いかにカラオケが無駄で無意味なのか、ということを説こうとするわけです。
本来なら、「いやー、俺カラオケ興味ないんだよねー」「あ、そうなんだー」で良いはずなんですけど。

結婚の話だって同じで「いやー、俺、今のところ結婚には興味ないんだよねー」で良いはずなんだけれど
周りからの「結婚して当たり前」ってプレッシャーが強いと、興味が無いではなくて、積極的に結婚しない理由が必要になるわけで
その一つの結実が「結婚はコスパが悪い」なのではなかろうか。

マイノリティの反論は行き過ぎがちなのではないか

結婚の例だと、「君は結婚に興味がある、私は結婚に興味が無い」でいいし、
カラオケの例だと「お前はカラオケが好き、でも俺は嫌い」でいい。
ところが、実際に言ってるのは
「君は結婚に興味があるようだが、〜〜という理由で結婚は間違った選択肢だ」であり
「お前はカラオケが好きなようだが、〜〜という理由でカラオケは有害無益だ」
なのだ。

これは、もう少し抽象化してみると、マイノリティの側の反論は
「マジョリティのみが正しいのではなくマイノリティも正しい」という共存で十分なはずが
「マジョリティは間違yっていて、マイノリティこそ正しいし広まるべき」という逆転を目指している形になっている。

ところが、この物言いは、マジョリティ側には極めて不快に映る。
言うなれば、マジョリティ側が「好みの押し付け」をしてるのに対し
マイノリティ側は「嫌いの押し付け」をしている構図ではないだろうか。
しかも、その「嫌い」は。相手が「好き」なものなのだ。

これは中々深い溝。
自分が好きなモノを相手が嫌いなのは、まぁ、自分とは他人は違うからね、で良いのだけれど
自分の好きなモノを嫌いになれ、と押し付けられるのは強い反感を伴うことは想像に固くない。

例えば私は犬が好きだが、それに対して
「犬は臭うし朝晩の散歩や餌やりといった手間もかかるし、ましてや人を噛むことすらある。あんなものを好き好むのは気違いじみた沙汰だ」と言われれば少なからず不愉快であろう。
それよりは
「あなたは犬が好きで信頼しているかもしれないが、私は犬の匂いもダメだし、噛まれるかもしれない、と思うと怖いので、リードに繋ぐなりケージに入れるなりしてもらえますか」
と言われれば、そうだね、自分と他人は違うものね、共存できる妥協点を探そうね、となるだろう。

みんな違って、それでいい

結局のところ、少なくとも個人の好き嫌い、興味においては
みんなと違うお前はおかしい、とか、逆に、みんな流されてるだけでおかしい、とかいうのではなくて
みんな違って、それでいい、ということをお互いに認め合う、ということ。それが一番、なのだろう。
好きを押し付けるのはもちろん、嫌いを押し付けられても、やっぱり不愉快だもの。

*1:ちなみに、以前は付き合いで行ったりすることもありましたし、多少なりとも歌える歌を作ろうかと考えた時期もありましたが、ある事件を契機に、もう絶対にカラオケには行くまい、と誓ったのであります。